長春包囲戦で30万人餓死 証言が暴く中国共産党の歴史改ざん

2025/10/20 更新: 2025/10/20

今から77年ほど前、1948年10月19日、中国の国共内戦において中国解放戦争史上もっとも長い戦いの一つである長春包囲戦が終結した。中国共産党(中共)軍は、国民党の圧政から人民を解放すると主張していたが、実際には長春市全体を食糧封鎖によって兵糧攻めにし、その結果、推定30万人もの無辜の市民を餓死させた。中国共産党は、この悲劇を歴史から消し去ろうとしている。

当時、父親が長春市で工場を営んでおり、7歳だった遠藤誉氏はこの包囲戦で壮絶な地獄絵図を目の当たりにすることになった。自身の著書『チャーズ 中国建国の残り火』)において、中国共産党による欺瞞と隠蔽の実態を告発している。

長春包囲戦は1948年5月23日から10月19日までの150日間にわたり、林彪率いる中国人民解放軍によって行われた。長春市は国民党軍によって守られていたが、中共軍は空港を占領・爆破して物資の空輸を阻止し、都市を完全に封鎖した。長春は二重の鉄条網によって包囲され、その中間地帯は「チャーズ(卡子)」と呼ばれた。

中共軍は国民党軍の食糧を消耗させるため、民間人が市外に出ることを意図的に阻止した。食糧を求めて都市を離れようとした市民はこの鉄条網の間に閉じ込められ、餓死体が地面を覆うほどの悲惨な状況に陥った。毛沢東は当時「長春を死城たらしめよ」と指示したとされる。遠藤誉氏によると民間人の死者数は30万人はいたとしている。

2017年12月、長春包囲戦について中国人民出版社から出版された『囲困長春』という書籍では、中共軍の非人道的な行為は完全に隠蔽され、「国民党政府のせいで多くの餓死者が出た」またさらに中共軍が「1948年9月11日以降、チャーズ内の難民を自由に解放区へ出られるようにした」と主張した。しかし長春包囲戦の生き証人である遠藤誉氏は、著書やコラムにおいて中共の主張を虚偽だと断言している。

遠藤氏の証言によれば、1948年9月20日、一家が長春を脱出した際、共産党軍の包囲戦でできたチャーズに閉じ込められ、餓死体の上で野宿することを余儀なくされたという。

チャーズの中では、包囲戦で何日も食物を取れず逃れてきた長春市民が大量に餓死しており、餓死体は腹部が膨れ、緑色に腐敗し、裂けた箇所から腸が流れ出ていた。チャーズでは死んだばかりの遺体を囲み、背中で隠しながら共食いする光景も見られた。解放区側の門は閉ざされたままであり、中共軍は鉄条網の向こうから難民が餓死していくのを黙って見ていた。

中共は難民を自由に放出したと主張しているが、遠藤氏の体験はそれを明確に否定する。遠藤氏の父は技術者として中共軍に必要とされたため、一家はようやく出門を許されたが、同行していた親子は「技術者ではない」という理由で切り離され、門を通過できなかった。父が土下座して懇願したにもかかわらず、中共兵士はその頭を蹴り上げ、「それならお前もチャーズに残れ」と銃で脅すなど、冷酷な対応を取った。

このような事実は、中国国内では長年にわたり徹底的に隠蔽されてきた。「チャーズ 中国建国の残り火」によると、遠藤氏が1990年代に入ってから著作の中国語版を出版しようとした際には、「デリケートな問題」としてすべての出版社に拒絶された。

また1989年に長春の食糧封鎖を描いた作家・張正隆の著書『雪白血紅』は発禁となり、張氏は逮捕された。さらに、遠藤氏を取材して台湾で『長春餓殍戰』を出版した杜斌氏も逮捕され、消息不明となった。

また遠藤氏自身も日本の科研費研究のために調査を行おうとした際、北京の日本大使館の役人によって中国政府に密告され、「危険人物」として調査が妨害された。2017年の『囲困長春』は中共軍の責任を隠蔽し、国民党に転嫁しており、遠藤氏はこれを習近平政権による歴史改ざんと非難している。

中国共産党が長春包囲戦の事実を隠蔽する理由は、その事実が中共の政権の正当性と革命の理念を根本から揺るがすためである。中共は「人民解放者」という虚構のもと、国民党の圧政から人民を解放する戦いであると宣伝してきた。しかし、実際には数十万人の市民を餓死させたことが明らかになれば、その正当性は失われる。人民解放軍という名前も偽りの名前となる。

毛沢東は、飢餓によって「誰が人民を食べさせるか」を人民に知らしめることを目的としており、これは現在の中共の統治原理にもつながっている。つまり、長春の惨劇を認めることは、中共の統治が飢餓と恐怖の上に築かれていることを明らかにすることになる。中共はこの事実を闇に封じ込め、歴史を改ざんし、言論を統制することで自らの権威を守り続けている。

大道修
社会からライフ記事まで幅広く扱っています。
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