先週末、中国メディアは国家主席の任期撤廃を報じ、激震が走った。今度の憲法改正で焦点となったのは「中華人民共和国憲法」79条第3款の「国家主席と副主席の任期が2期を超えてはいけない」という内容であり、3月に開かれる全人代(国会相当)を通過すれば改正される。習近平氏が独裁を目論んでいると批判する声が多いなか、在米中国問題専門家の石涛氏は自身のYouTubeチャンネルで、今回の改憲を歴史的経緯から見る必要があると述べた。
この憲法改正を見て独裁政治を連想する人も多いと思う。中華人民共和国憲法によれば、国家主席は象徴元首制であり、実権を持たないのだ。しかし江沢民政権以降、軍事委員会主席と共産党総書記が国家主席を兼任するようになったため、国家主席が最高指導者だと誤認されるようになった。「香港01」の記事の中では、中国共産党の統治原理を熟知せず法律面しか見えない者にとって、彼らの目には国家主席こそが最高指導者として映っている、とある。これはもっともな指摘だろう。
これは民主的で普遍的な社会におけるものの考え方から導いた理論と、共産主義国家の実質的統治原理という現実とが、互いにかい離していることを示している。頭の中の認識と現実のかい離である。中国共産党統治下の中国において、実質的な指導者は共産党総書記と軍事委員会主席である。しかも憲法でも国家主席はただの象徴だとしか規定されていない。
中国共産党党章(綱領・規約)では総書記には任期は付されていない。軍事委員会主席も任期が事実上設けられていない。例えば、江沢民は2003年に国家主席を退任したにもかかわらず、その後も軍事委員会主席を2年間務めた。国家主席、総書記、軍事委員会主席の中で任期に制限があるのは国家主席のみであり、改憲により国家主席も任期制限が撤廃される。
「香港01」によれば、任期制限がないからといって終身制を意味するわけではない。終身制の欠陥については、中国共産党内でもわかっているはずだ。改革開放後、鄧小平は歴史の教訓から終身制を廃止し民主集中制を提案し、国家主席に二期の制限を付した。多くの中国人学者はこの鄧小平のやり方は非常に良いものだったと評しているが、歴史的経緯を見なければ問題の本質にはたどり着いていない。
鄧小平は1982年に国家主席の任期を二期に制限したが、当時の国家主席は李先念だった。一方で、中国の1954年憲法における規定は今回の憲法改正後と同じ、任期制限がないものだった。劉少奇(リューシャオチー)は1959年に国家主席になったが、劉少奇は1954年当時、軍の実権をも握っていた。そのため毛沢東は、軍の実権を持つ劉少奇を打倒するのに大きな努力を要した。結局劉少奇は殺害された。軍で実権を持つ林彪(リンビャオ)は国家副主席となったが、同じく後に殺害された。
このように、一連の出来事の中で突出してくるのは、国家主席が実権を握るかどうかという問題だ。中華人民共和国1982年憲法で国家主席の任期・権力に制限が設けられたのは、鄧小平が独裁するためだった。そのため、鄧小平が当時就いていた軍事委員会主席のポストには任期制限が設けられなかった。当時の国家主席は李先念であり、鄧小平は軍事委員会主席として軍の実権をすべて手中に収めていた。のちの楊尚昆は国家主席であると同時に軍事委員会副主席だったため、軍事委員会主席であった鄧小平の言いなりになっていた。天安門事件が起こったのもこのためである。
したがってこのように見れば、1982年憲法からにじみ出てくるものは、鄧小平のわがままな意向である。同時に鄧小平は国家のポストに権力の制限を置き、法外の共産党のポストが国政に関与できる度合いを大幅に増やした。
中国共産党統治下に置いては常に絶対的な権力者、絶対的な独裁者しか存在しえず、いわゆる民主的な概念は全く存在しないのだ。
(翻訳編集・文亮)
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