今日のスマートフォンやテレビがなかった古代では、人々はどのように情報を伝えていたのでしょうか。今日まで使われ続けているものもあれば、その名残だけが残されているものもあります。ここでは人類文明の初期までさかのぼり、情報伝達に先人が費やした智慧を紐解いていきます。
~音・光・煙~
今日では楽器として使われる太鼓ですが、古代では重要な情報伝達ツールでした。アフリカの原住民の部族の多くは、太鼓の音を複雑に組み合わせることで情報を伝えていました。また、ミャオ族やシャン族といった中国の少数民族では、今日でも太鼓の音を使った情報伝達の方法が残っています。
いっぽう、キリスト教が浸透した西洋世界では、鐘の音が大きな役割を担っていました。高層ビルが立ち並ぶ前のヨーロッパでは、鐘が設置されている教会の塔が町で最も高い建築物でした。教会の鐘の美しい音色を通して、人々に礼拝の時間を知らせ、外敵に襲われた際には、警鐘としての役割を果たしました。
中国には「暮鼓晨鐘(ぼこしんしょう)」という古事成語がありますが、これは寺院が夕方に時報として太鼓を鳴らし、朝には鐘を鳴らしていたことの名残です。
古代中国の城郭都市には鐘や太鼓を鳴らす塔があり、平時には時を知らせ、有事の際には危険の到来を知らせていました。清王朝の初期には、夜の7時に太鼓と鐘の音を立て続けに鳴らし、それを合図に城門が閉められました。そこから翌朝5時まで二時間ごとに鐘を鳴らし、朝5時に再び太鼓と鐘を連続で鳴らして城門を開きました。
清王朝中期の乾隆帝(第6代皇帝)の時代には、夜7時から朝5時までの鐘の音をなくし、城門を開閉する際のみ鳴らすよう変更されました。1924年、清王朝最後の皇帝溥儀が北京の紫禁城を追われてからは太鼓と鐘の音は鳴らなくなりました。2001年には復活したものの、すでに昔の面影はなくなってしまいました。
煙や明かりによる情報伝達も広く使われました。古代の人々は、辺境の土地や地形が険しい場所、交通の要衝などに高台を建設しました。中には薪が常備され、敵が攻めてくると、昼間はのろしを挙げ、夜間は火を灯して敵襲来の情報を伝えました。この方法は中国の周王朝時代や、古代ギリシャ時代にはすでに確立されており、近代に至るまで様々な文明地域で用いられました。
(つづく)
(翻訳編集・王天雨)
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