インド太平洋構想
昨年7月、非業の死を遂げた安倍晋三元総理の世界的な功績はインド太平洋構想の提唱である。かくも雄大な構想を世界に向けて提示し、米国やその他の国々の賛同を得て具体的に推進した日本の総理は戦前を含めていなかったし、これからも現れないだろう。安倍晋三氏は空前絶後の大政治家であった。
インド太平洋構想は、第1次安倍政権時の2007年8月に当時の安倍総理がインドの国会で演説した「二つの海の交わり」が始まりである。演説の中で安倍氏はこう力説している。
「太平洋とインド洋は、今や自由の海、繁栄の海として、一つのダイナミックな結合をもたらしています。従来の地理的境界を突き破る『拡大アジア』が明瞭な形を現しつつあります。これを広々と開き、どこまでも透明な海として豊かに育てていく力と、そして責任が私たち両国にはあるのです」
そして日印関係の歴史に触れ、経済関係の拡大、インドの世界史的意義、戦略的意義、自由と民主主義、基本的人権の尊重などの基本的価値を強調し、この演説を終えたとき、議場はスタンディングオベーションの渦となった。ここにインド太平洋構想は産声を上げたのである。
もとより、この構想は安倍氏が一人で思い付いたようなものではない。そんな思いつきの構想だったら、これほどの成功を見なかっただろう。演説の中で安倍総理は「日本外交は今、ユーラシア大陸の外延に沿って「自由と繁栄の弧」と呼べる一円が出来るよう、随所でいろいろな構想をすすめています」と述べている。
「自由と繁栄の弧」とは、当時の外務大臣、麻生太郎氏が表明していた外交方針である。「弧」という聞きなれない語が使われているが、この言葉こそ、地政学的用語であって、インド太平洋構想が地政学的な概念に基づいている事を示している。
地政学上においては、ユーラシア大陸を半円状の大陸として認識する。半円の弦の部分が北極海に面しており、従って弧の部分はインド洋と太平洋に面している訳である。
弧の部分を安定させることにより、自由と繁栄の弧を実現しようと言う発想だが、実は、この発想は逆転の発想だった。
逆転の地政学
2001年9月11日に米国同時多発テロが発生し、米国はアフガニスタンに侵攻した。この年に発表された4年ごとの国防計画見直し(QDR)で、米国はイスラエルからカスピ海を通り、北朝鮮を結ぶ線と紅海から韓国へと至る弧を「不安定の弧」と例えた。米軍基地も少なくテロの温床と化しているためだ。
2003年、米国はイラクに侵攻した。このため「不安定の弧」は米軍侵攻作戦の異名がついた。アフガニスタンはともかくイラク侵攻は国際世論を無視する形で行われたため、非難の的となった。
日本も自衛隊をイラクに派遣した。人道復興支援と安全確保支援のためであり、自衛隊の活動そのものが非難されることはなかったが、日本の外交は常に対米追随つまり「米国のポチ」などという批判を少なからず受けた。
こうした状況の中、2005年に外務大臣に就任した麻生太郎氏は、日本のそれまでの外交政策を総括して世界に分かりやすくアピールできないだろうか、と外務省幹部と相談を重ね、誕生したのが「自由と繫栄の弧」である。
従って、この概念は、米国の「不安定の弧」の戦略概念を逆手にとって不安定の弧を自由と繁栄の弧に変えるという積極的で創造的な価値観外交の基本概念となったわけである。
戦後外交の総括
ここで重要なのは、それまでの日本の外交を総括している点である。戦後の日本の外交政策は、戦略的な指向を示すことを嫌い、全方位外交と言った総花的なイメージを強調する傾向にあったが、安倍・麻生両氏は戦略的方向性を明確に打ち出したところに特徴があった。
そして、これは両氏の明確な決断によるものであり、この決断なしにインド太平洋構想はあり得なかったのである。
そして両氏の決断の背景には、両氏の家系が深く関わっている。いうまでもなく麻生氏の祖父は戦後、総理を務めた吉田茂である。吉田の最大の外交成果はサンフランシスコ講和条約の締結であり、米英仏豪加比など49か国が署名した。
当時は米ソ冷戦期であり、世界は米ソ両陣営に二分されており、この条約は米陣営とのみ結んだものだった。つまり日本は米国側を選択したのだ。当時、国内では左翼がソ連などとの全面講和を主張し、この条約に強硬に反対を唱え、国論を二分する中で、当時の吉田茂総理は決断したのだった。
麻生氏は、この祖父の功績を十分理解しており、この条約を基盤として「自由と繫栄の弧」を描いたのである。
一方、安倍氏の祖父は言わずと知れた岸信介元総理だ。岸氏の功績は1960年の日米安保条約の改定が名高い。これがインド太平洋構想の中心軸をなしているのは明白だが、岸総理自身もインド太平洋諸国との交流を重視していた。
インドネシアとの国交を樹立し、インドを訪れネルー首相と会談し、国民から大歓迎を受けた。またオーストラリアを訪問し、国会で演説し大戦中のしこりを取り除いた。
現在のインド太平洋構想の原型は岸氏によって築かれていたと言っても過言ではあるまい。
明治の元勲の影
2019年11月20日に安倍氏の総理在任日数が通算で2887日となり、戦前の桂太郎を抜いて歴代1位となった。在任期間が長いということは、それだけ長く総理として信任されていたと言う事であるから、やはり評価に値するわけだ。
だが桂太郎と安倍晋三を比べると単なる在任日数だけではすまない類似点がある。まず第1に出身地がともに山口県であること。そしてともに大外交を展開した点である。実はこの二つの特徴は深くつながっている。それは歴史を振り返れば明らかだ。
山口県は幕末、長州と呼ばれ、明治維新の最大のイデオローグ吉田松陰門下の伊藤博文や山形有朋などの維新の元勲を輩出したことで知られる。桂太郎も吉田松陰の強い思想的影響下にあった人物である。安倍氏も吉田松陰全集を読破しており、その影響は明白だ。
2番目の大外交だが、桂太郎は日露戦争に勝利したときの総理なのだが、日露戦争を勝利に導いた大外交戦略を展開した総理でもあった。その大外交戦略とは、一つは日英同盟であり、もう一つは日米協調である。
当時の英国は大英帝国の最盛期であり、インドも豪州もカナダも香港も、みな英国領であった。つまり日本は大英帝国のインド太平洋諸国と同盟関係になったのである。そして当時の米大統領セオドア・ルーズベルトに個人的に働きかけ親日的にさせたのである。
これは、インドや豪州など結び米大統領トランプと個人的な信頼関係を築き、インド太平洋構想を推進した安倍晋三に酷似している。明らかに安倍氏は郷土の大先輩である桂太郎を見習ったのである。
そして桂太郎は大外交戦略により、ロシアに勝利し、安倍氏はインド太平洋構想により中国の脅威に対抗しようとしたのだ。
インド太平洋構想の未来
安倍氏は2007年、インド訪問後、病に倒れ退陣を余儀なくされ、インド太平洋構想も掛け声だけで終わったかに見えたが、2012年末の衆議院総選挙で安倍氏は総理に返り咲き、インド太平洋構想も復活した。
同年末、復権直後に、海外誌にダイヤモンド・セキュリティ構想を発表したが、これは日米豪印によって中国を抑止しようと言う構想であり、これが後にクワッドとなってインド太平洋構想の中核となった。
2014年5月30日に、シンガポールで開かれたアジア安全保障会議、通称シャングリラ会合で安倍総理は中国の威圧を批判し、「インド太平洋の安定で連携しよう」と諸国に呼び掛けた。インド太平洋構想が、ここで対中包囲網としての性格をあらわにしたのである。
だが安倍氏はインド太平洋構想の弱点をよく理解していた。それは、桂太郎の日英同盟と比較すれば明白だった。当時の日本は日露戦争に勝利できるほどの軍事力を備えていた。現在の日本は中国に勝てる戦力を有していない。
これでいくら対中抑止を主張しても、肝心の日本が戦えないのでは、どこの国もついてくるわけはない。安倍総理は復権直後から防衛費の増額を指示し、特定秘密保護法、平和安保法制、テロ対策法、を制定し防衛力の強化に努めた。
2016年8月、ケニアで開かれたアフリカ開発会議で安倍総理は「自由で開かれたインド太平洋」を提唱した。ここで始めてインド太平洋構想は日本の正式な外交政策となったのである。
同年11月、米国大統領選でトランプ氏が予想外の勝利を収めるや、翌月安倍総理は訪米し、大統領就任前のトランプと懇談し、個人的な信頼関係を築いた。そして安倍総理のインド太平洋構想に賛同するようになったトランプ大統領は2017年11月にベトナムのダナンで開かれたAPEC首脳会議で「自由で開かれたインド太平洋」ビジョンを表明し、日米豪首脳でインド太平洋戦略を確認するに至った。
世界各国がインド太平洋構想に同調するに至ったのはこれからである。つまり軍事力の弱い日本がいくら対中抑止を主張しても、米国の賛同がなければ絵に描いた餅にすぎないのだ。
2020年に安倍氏は再び病に倒れ総理を辞任したが、その後も強いリーダーシップを発揮していた。だが強い個人的信頼で結ばれていたトランプも2021年に大統領を退任し、安倍氏も昨年非業の死を迎えた。
岸田総理もバイデン大統領もインド太平洋構想の継続を言ってはいるが、いかにもその対応は弱々しく、今後のインド太平洋構想には瓦解の懸念すら漂っている。
(了)
ご利用上の不明点は ヘルプセンター にお問い合わせください。