張又侠の「別の党中央設立」を暗示か? 軍報が4回も張国燾を批判

2026/02/13 更新: 2026/02/13

中国共産党(中共)軍委副主席であった張又侠(ちょう・ゆうきょう)の失脚後、中共軍報は張国燾(ちょう・こくとう)に言及する社説を前後して4本発表した。分析によると、これは張又侠が「兵力を私物化して自らの地位を固め、党中央に背いて独自の指導部を打ち立てようとした」ことを示唆している可能性がある。

2月9日、中共軍報の第6面に評論記事「政治的な強さこそが根本の強さである」が掲載された。文中で挙げられた唯一の反面教師としての実例が、「張国燾による党と紅軍の分裂活動」であった。また、当時の朱徳は「威嚇や利益誘導」に直面しながらも、張国燾には従わなかったことにも触れている。同記事は改めて、軍に対し「すべての行動において党中央、中央軍事委員会、および習主席の指揮に従わなければならない」などと呼びかけた。

張又侠の失脚が公式に発表されて以降、軍報は少なくとも4本の記事で「張国燾」を名指ししている。これまでの記事は、2月2日の「政治建軍専刊・淬火要論|組織が強ければ軍も強い」、2月3日の「新局面において難局を突破する気概を持ち続ける」、2月9日の「政治建軍專刊・淬火要論|人材は古来より養成されるべきもの」である。

これらの記事の中に、張又侠や、彼と同時に失脚した軍委委員の劉振立を名指しする記述はない。しかし、時期が極めて敏感であることから、世論はこれらすべてが張又侠に関連しているのではないかと疑っている。

習近平政権の発足以降、中共の党メディアは何度も張国燾を名指しで批判しており、彼を「野心家」「陰謀家」と呼び、「兵力を私物化して自らの地位を固め、党中央に背いて独自の指導部を打ち立てようとした」などと非難してきた。

例えば、習近平がかつて江沢民派の軍委副主席であった郭伯雄や徐才厚を失脚させた際にも、中共の喉首(機関紙)は張国燾を激しく批判した。

しかし、習近平の側近であった前軍委副主席の何衛東が失脚した際、党メディアは彼が「徒党を組んだ」ことを示唆するにとどめ、張国燾を引き合いに出して批判するレベルには至らなかった。これは、今回の張又侠の失脚に対する「待遇」とはいささか異なる。

史実によれば、中共軍が北上して逃亡する過程(1934年10月から1936年10月)において、張国燾は毛沢東と内紛を起こし、西路軍を率いて陝西北部を離れ西進したが、その後、国民党軍に包囲され壊滅した。1938年、張国燾は中共を離れて国民党に身を寄せ、その後、武漢で離党声明を発表した。1948年に家族を連れて台湾へ渡り、後に香港で隠居。1968年にカナダへ移住し、1979年に82歳で病没した。

時事評論員の鄭浩昌氏は大紀元に対し、「中共の洗脳宣伝において、張国燾の名声はとっくに真っ黒に塗りつぶされている。今回、軍報が張国燾を再び持ち出したのは、実際には張国燾を張又侠に見立てており、張又侠が党内・軍内で習近平に対して『分裂』を画策したことを暗示し、いわゆる新時代の『朱徳』に対して張又侠を拒絶するよう呼びかけているのだ」と述べている。

中共軍当局は1月24日、張又侠と劉振立の失脚を公式発表した。軍報はその直後、一面に記事を掲載し、5つの「深刻な」という言葉を用いて二人の「政治的性格付け」を行った。その中にはいわゆる「軍委主席責任制を深刻に踏みにじり破壊した」という表現が含まれており、透けて見える「権力闘争」の火薬の匂いは非常に濃厚であった。

その後、軍報は一時沈黙したが、張又侠の名前が再び軍報に現れたとき、彼に対する批判は「政治的性格付け」から「腐敗問題」へとトーンダウンしていた。

張国燾を批判する前述の記事は「別の党中央の設立」を暗示してはいるものの、張又侠を名指ししておらず、どこか控えめな印象を与えている。

陳鎮錦