高智晟著『神とともに戦う』(27) 孤独な者の孤独な夜
友人が送ってくれた袁紅冰(北京大学法学部の元教授)氏の『高智晟弁護士の孤独』という文を読んだ時、私は涙をこらえられなかった。袁氏は、中国の弁護士全体に対して鋭い喝を入れた。す
高智晟著『神とともに戦う』(26)中国の弁護士の悲哀②
中国の闇はあまりにも多すぎる。とりわけ制度によって公民が受ける被害は深刻だ。だが、これは断じて悲哀の全てではない。我々の悲哀とはすなわち、公式・非公式にかかわらず接した政府の職
高智晟著『神とともに戦う』(25)中国の弁護士の悲哀
私が弁護士となって最初に引き受けたのは、無償の裁判であった。その後、毎年3分の1の精力は、貧しい人々のため無償の裁判へと注いだ。7年来、この点は常に一貫していた。北京に入り、
高智晟著『神とともに戦う』(24)どの案件もはらむ制度問題(2)
強制立ち退き裁判は完敗! 私が手がけた強制立ち退きの裁判は100戦100敗、つまり100%の負けである。この数字は政府の公式統計ではないので、絶対に正確だといえる。例えば、
高智晟著『神とともに戦う』(23)どの案件もはらむ制度問題
中国は、法治国家とは異なる。どんな小さな案件であれ、あらゆる案件が最終的に浮き彫りにするのは、あまりにも深い制度上の問題だ。これは紛れもない、しかし非常に重い事実である。では、
高智晟著『神とともに戦う』(22)夫人が見た高智晟(4)
我が家は「船」、夫は「船長」 陕北油田の投資者を弁護した北京の弁護士・朱久虎が逮捕された。高智晟はその知らせを聞くや否や、彼を助けようと陝西省北部の楡林へ急いだ
高智晟著『神とともに戦う』(21) 夫人が見た高智晟(3)
まるで「壁に耳あり障子に目あり」であった。そのため、夫が家に不在の時、耿和は夜でも通りに面した部屋の明かりをつけようともせず、子どもにも小声で話すよう言い含めた。また、他人を
高智晟著『神とともに戦う』(20)夫人が見た高智晟(2)
90年の8月1日、2人は結婚証明書を受け取ったが、その後は別れて暮らすこと4年。94年になって、耿和は何とか高智晟の戸籍をウルムチへ移し、ウルムチのセメント工場で働けるよう手配
高智晟著『神とともに戦う』(19)夫人が見た高智晟(1)
(訳者注)本項は高智晟 弁護士の妻・耿和氏の口述をもとに書かれているため、前項までの第一人称体である「私(高弁護士)」とは異なった文体になっています。
高智晟著『神とともに戦う』(18) 我が平民の母7
私たち7人の子どものすべてが、母の精神世界にとっての中心だった。たとえ今わの際になっても、わが子と孫たちの名を繰り返し呼び続けた。息を引き取るまで、何度も何度も数え切れないほ
高智晟著『神とともに戦う』(17) 我が平民の母6
【大紀元日本1月13日】貧しい人々を支えた母の偉業のうち、最も忘れ難く、いまだ記憶に新しいのは、そのうちの2つである。1つは、寒風が突き刺すような真冬の夜のことだ。その夜、物乞いになった数人の貧しい
高智晟著『神とともに戦う』(16) 我が平民の母5
【大紀元日本1月5日】母は、有徳の人であった。この母の功徳ぶりは、私の認識やこの手中の筆が決めるものではないが、いずれにせよ、母が徳の力で積み上げてきた数々の逸話を、この筆で書き尽くすことは到底でき
高智晟著『神とともに戦う』(15) 我が平民の母4
【大紀元日本12月26日】中国北西部、黄土高原の厳しい冬は、その年初めての強い北風とともに、規則正しくやって来る。他の家の子たちが家にこもっている頃、我が家の子たちは野山をめぐっては焚き木を拾った。
高智晟著『神とともに戦う』(14) 我が平民の母 3
母は、先々まで見通すことのできる人だった。このおかげで、今日の私たちが存在する、あらゆる基礎が築けた。母は、長男と姉以外、すべての子を学校に行かせることに決めた。
高智晟著『神とともに戦う』(13) 我が平民の母 2
1975年の6月22日、周囲の助けのもと、私の父はようやく40元相当の棺を手に入れた。大きな体を丸めて41年生きた父は、亡くなってもなお体を折り曲げ、つけで買った棺に横たわっている。何はともあれ、こうして父の埋葬問題は一件落着した。
高智晟著『神とともに戦う』(12)我が平民の母 1
2005年3月6日午後4時24分、私の母は、限りなく愛したこの世を去って行った。我々兄弟姉妹7人にとって、これは母のいる時代の終わりであり、母のいない時代の始まりでもあった。
高智晟著『神とともに戦う』(11)半握りの煎り大豆
私は、母が私を生み育ててくれた所へと戻って来た。この洞窟、我が家、そして山道、目にするものすべてが私を追憶へといざなう。
高智晟著『神とともに戦う』(10)古びた銅のヒシャク
確かあれは、夏の日の昼ごろだった。私は母について水を汲みに行った。私たちの村の水汲み場は崖の中ほどにある。
高智晟著『神とともに戦う』(9)
「いつかは腹いっぱい、飯を食いたい」。これこそ、父が果たせなかった悲願であった。
高智晟著『神とともに戦う』(8)
旧暦の12月27日、泣きくれて目の腫れも引かない母は、私を連れて出かけた。我が家のだれ一人として、母の行き先を聞こうとはしない。
高智晟著『神とともに戦う』(7)新年
春節、それは農村地区で特別な意義があり、中国の農村で最大の祭りでもある。それはまた、農村の住民にとって最も大切な祭りでもあるのだ。
高智晟著『神とともに戦う』(6)
弁護士試験は、極めて苦しいものだった。中国には、「大禹は治水という大事業を成し遂げるまで、決して家に帰らなかった」という言い伝えがある。
高智晟著『神とともに戦う』(5)「天は自ら助くる者を助く」
我が家の生活も、96年を境に改善の兆しが見え始めた。私は94年に独学で専門学校を卒業し、95年に弁護士資格を取得した。そして96年には弁護士事務所を開いた。
高智晟著『神とともに戦う』(4)
それにしても、これはとんでもない道中だった。延安から綏徳(すいとく)まで少なくとも270キロあるが、その日の夜には着いた。
高智晟著『神とともに戦う』(3) 「暗く果てしない道」
私は家路に着いた。その初日、黄陵まで一気に40キロも歩いた。何も口にしていなかったので、ひどくお腹が空いていた。ある食堂を通りがかると、中では油条(細長い揚げパン)を揚げている。
高智晟著『神とともに戦う』(2)「いつになったら腹一杯食えるのか」
私は1964年、陕西省北部の農村に生まれた。それは中国人誰もが貧しかった時代。なかでも我が家は特に貧乏だった。記憶の中の父は、オンドルの上でいつも「いつになったら腹一杯食えるのか・・・」とぼやいていた。
失踪して6年、中国人権派弁護士・高智晟氏 「神とともに戦った人物」は今どこに?
「中国の良心」と呼ばれる高智晟氏が2017年8月13日に失踪して6年になる。今年の8月13日、世界の60以上の都市で、高氏との連帯を示す声援集会が開かれた。
高智晟著『神とともに戦う』(1)「筆が重い。祖国中国の闇が徐々に明かされるから」
高智晟(こう・ちせい)。彼こそ中国の有名な人権派弁護士だ。また、中国全土で吹き荒れる権利を守る戦いの中心人物でもある。金も権力もない、しかし助けを必要とする民衆の心の中で、高智晟弁護士は神にも匹敵するのだ。
高智晟弁護士、行方不明になって6年 8月13日に世界中で支持集会が開催
中国の著名な人権派弁護士である高智晟氏が失踪してから6年が経過した。8月13日、世界の多くの主要都市では、高智晟弁護士を支持する集会が一斉に開催される。
中国の「709事件」8周年 在米華人が米国で支援集会「迫害はまだ続いている」
7月8日夜、米国在住の華人がニューヨークやロサンゼルスに集まり、「709事件」で今も弾圧や迫害を受けている中国国内の人権弁護士への声援集会を開いた。