2019年7月18日の昼ごろ、京都市伏見区にあった京都アニメーション第一スタジオに男が侵入し、大量のガソリンを撒いて放火。あっという間に炎上して36人が死亡、33人が重軽傷を負うという大惨事が起きた。
裁きにかけられるべき者
悪魔の火を放った青葉真司被告(当時41歳)も、自身の命にかかわるほどの大火傷を負う。
全身の9割に重度の火傷を受けた青葉被告は当初、生存の可能性は5%とも見られた。
治療に当たった医師団は、この男を「死なせないため」最高レベルの医療を投入した。そして懸命の治療の末、ついにその命を救うのである。
医師団の目的は、ただ1つであった。
裁判で、本人の口から真実を語らせるとともに、自身が犯した天も泣かしむるほどの大罪に、被告をきちんと向き合わせるためである。
犠牲者とその遺族のためにも、この使命は絶対に果たさなければならない。それは医師団共通の決意であり、覚悟であった。
「まだ死なない」のは何故か?
重大な罪を犯したものは、生あるうちに、正当な裁きにかけられなければならない。
1926年生まれの江沢民は、来たる8月17日に満96歳になろうとする。
通常のお年寄りであれば、その長寿を祝い、家族皆でにぎやかな宴席を囲んで楽しい時を過ごすであろう。かつて国家の要職に就いた人物であれば、たとえ平凡な業績であっても、長寿をことほぐ国民からの祝賀を受けてよい。
しかし、江沢民は全く違う。業績どころか、とんでもない害悪しか残さなかった。
それにしても江沢民が、96歳になろうとする今も死なずにいるのは、なぜか。
もちろん、京アニ事件の医師団のような人々に、江沢民が手厚くケアされているからではない。江沢民は今、庶民が受けられる医療よりはるかに高度な医療サービスを受けているのは間違いないが、それでもまだ死なずにいるのは、「裁かれよ」という天の采配に他ならないとも言えるのではないか。
本当は「漢奸の息子」
そもそも江沢民という男は、その出自からして欺瞞に満ちていた。
実父の江世俊は、日本軍占領下の江蘇省で日本の特務機関に協力しており、南京の汪兆銘政権の官吏でもあった。つまり、中国側から見れば敵である「日本軍の協力者」だったのである。
江沢民は、まだ第二次大戦中だった学生時代には南京中央大学で日本語を学んでいた。
戦後、日本軍がいなくなった中国で、我が身の危険を感じた江沢民は中国共産党に接近し、1946年4月に入党する。
当然、その出自の清らかさが問われたはずだが、叔父で中共幹部であった江世侯(江上青)の養子ということにして、「日本軍に協力した漢奸の息子」である自身の汚名を隠した。
実は、江世侯は1939年に、28歳で匪賊に殺されている。そこでも江沢民は「革命に殉じた勇士の息子」という見え透いた嘘をつく。もちろん今日、中国人でさえ冷笑するばかりで、誰も信じてはいない。
再来した「暗愚の暴君」
「枚挙に暇がない」とは、まさに江沢民の罪状の多さを指す言葉であろう。
江沢民は、上海市長、上海市党書記などを経て、89年六四天安門事件の後、鄧小平の推挙により、失脚した趙紫陽に代わって党総書記および中央政治局常務委員に就く。
何の能力もなく、教養もなく、人望も徳義も全くもたない男である。そんな江沢民に、一つだけ才能があったとすれば、鄧小平に取り入る「ふるまい」がうまかったことだ。
江沢民を「隋の煬帝(ようだい)のような男」と表現したら、かえって煬帝に失礼かもしれない。
煬帝は、父君である文帝が存命中は、模範的な孝子としてふるまう。
ところが文帝の没後、煬帝は隋朝の第2代皇帝に即位した途端に豹変し、中国人民にとって史上最悪の暴君となるのである。
ただし煬帝は長命せず、50歳で部下に殺される。96歳まで生きそうな江沢民とは、その点が異なっている。
「裸の王様」が招いた腐敗
江沢民が、中国人および日本をふくむ諸外国にもたらした最も大きな罪悪は何か。
それは、とても一言で総括できるものではないが、無理を承知で言うならば「中国と中国人を、壊滅的なほど狂わせた罪」ということになるだろうか。
89年の六四天安門事件の後、鄧小平の後押しだけで上海から中央政界のトップに成り上がった。そんな暗君の脳裏には、「今回のような民主化要求など、二度とさせない」という、病的なほどの恐怖心から発した思考が満ちていた。
人々は、江を蛤蟆(ヒキガエル)と呼んで揶揄した。
江沢民は確かに愚者であったが、自分が中国人民に全く人気がなく、まして毛沢東のようなカリスマ性をもたないことは、さすがに自覚していたらしい。大国を統治する自信など、始めから無かったと言ってよい。
その劣等感ゆえに、自分より優れたものに対する江沢民の嫉妬心は、すさまじかった。
97年に鄧小平が死去。後ろ盾を失った江沢民は以後、ひたすら金銭をばらまいて自分を支持する人脈を保つことになる。江沢民派(上海閥)とは、所詮そうした腐敗の大集団であり、政治理念などは毛頭ない。
腐敗は、中国のいつの時代にもあった。
しかし江沢民時代において、「国家全体が絶望的に腐敗した段階」に至ったことは間違いない。それゆえ、後を継いだ胡錦濤が最も頭を悩ませたのは、この救いようがないほど腐敗した中国社会の現状だったのである。
権力維持のための「反日」
学生中心の民主化運動に手を焼いた教訓から、江沢民が教育現場で大々的に進めさせたのは、極めて恣意的かつ洗脳的な「愛国(実は愛党)」と「反日」の教育だった。
この事実は、とくに私たち日本人は認識しておく必要がある。
中国の各所に「抗日記念館」、あるいはそれに類する特殊施設が次々と増設された。もちろん抗日関係の施設はそれ以前にもあったが、爆発的に増えたのは江沢民の時代からである。
そこには「日本軍がいかに残虐だったか」を示す展示が満載されている。そのような施設を、例えば学校の課外活動で生徒に見学させ、後で感想文を書かせる。「模範的」に書いた生徒は表彰され、感想文は印刷物に掲載される。
このようにして、未来を生きる児童や生徒の柔らかな感性に、消えることのない「反日」の焼き印が押されるのである。
その目的は、中国人の意識のなかに「憎むべき敵・日本」を刻み込むことで、(中共政権というよりも)江沢民個人への批判をかわす狙いがあったからである。
まったく同様に、「愛国」という名目で学生や子供たちに注入された「愛党精神」も、その脆弱な政治基盤を少しでも堅固にしたいという、江沢民の心の悲鳴から発せられたものに他ならない。
「法輪功を3カ月で撲滅せよ」の狂気
江沢民という人物を語る上で、この事実は避けて通れない。1999年7月20日、江沢民は全くの独断で「法輪功を3カ月で撲滅せよ」という狂気じみた命令を発した。
当時の朱鎔基首相をはじめ、周囲の誰もが反対した。しかし江沢民はそれに耳も貸さず、6月10日に作られた「610弁公室」という超法規的機関に、この法輪功(ファルンゴン)という心身を健全にする気功の人々を消滅させる特権を与え、実行させるのである。
実のところ、法輪功への圧迫はその前年から始まっていたが、中国全土で、極めて大規模に法輪功弾圧が実施されたのは、この日からである。
以来23年が過ぎた現在でも、法輪功への迫害は停止されていない。
江沢民は政界を引退し、その配下にいた迫害実行者の多くは、汚職や不正蓄財の「罪状」で粛清されてきたが、法輪功を迫害する「機能」がまだ停止していないのである。
非道をさんざん続けてきた「動き」というものは、止めるにも止められないのだ。そうした中共の絶望的な愚昧さは、昨今の清零(ゼロコロナ)政策にも、いくぶん共通するかもしれない。
法廷に引き出される日
信じ難いことだが、共和制ではない「中華人民共和国」にも、法律や憲法がある。
ただし、それらの法律の上に「党」が絶対的に存在するため、法律があっても司法が正常に機能しないのである。法律を極めて恣意的に運用するので、例えば、何に対しても「国家転覆罪」の濡れ衣を着せられるのだ。
同様に、立法や行政も全て「党」が采配している。日本人には理解しがたいことだが、いわゆる「中国政府」というのも、中国共産党の下に置かれた機関に過ぎない。国家主席というのも単なる名誉職で、実権は「党総書記」が握っている。
それでも江沢民は、その犯した罪の全てを、中国の法律によって、厳正に裁かれなければならない。そのために、江沢民は老醜をさらして今も死なずにいるからだ。
外向けには虚勢を張っているが実質的には風前の灯である中国共産党が、江沢民を完全に見限り、江派の残党を本気で一掃する決断をしたとき、江沢民は法廷の場に引き出される。その可能性は現段階では少ないが、ゼロではない。
中国にいる江沢民に対して、すでにアルゼンチン、オランダ、スペインなどの海外から複数の起訴がなされている。それらは、中国国内における法輪功の弾圧、臓器収奪とその売買、集団虐殺と拷問などが「人道に対する罪」に該当すると訴える。
日本からは、まだ同様の動きはない。
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