中国共産党の言い方によれば「中国には、漢民族(漢族)のほかに55の少数民族がいる」という。日本の各メディアも、この「少数民族」という言葉を無批判に使っている。
しかし、中国における「少数民族」は、中共が政治的に意図してそう呼んでいるものであるため、使用には注意を要する用語なのだ。
例えばウイグル人、モンゴル人、チベット人などは、数百万から千数百万の人口を擁するとともに、それぞれ独自の言語や文化をもつ。それらは歴史上、いわゆる漢族の王朝には属さない、独立した「国家」の形態を有していた時期もある。
そのような民族まで、中共は無理やり「少数民族」のカテゴリーに入れている。人口の多さでいえば、最多人口はチワン族で約1800万人であるが、どう見ても「少数」ではない。
中共の狙いは「文化破壊による同化政策」
つまり、中共による「少数民族」という言葉には、すでに言語上のバイアスがかかっていることに留意しなければならないのだ。
実は「苗(ミャオ)族」という名称も、1953年以降の「民族識別」政策によって、細かく言えば異なる民族であったものを1つにまとめられ、勝手に名付けられた「民族名」である。そこには中共の視点からみた差別的なニュアンスがないとは言えない。
そのため、彼らは「モン族」と自称している。ミャオ族もまた約900万人の人口をもつ大民族であり、決して少数ではない。
そして、民族の名称のほかにもう一つ、中共がどうしても抹殺したいものがある。それぞれの民族が、中国共産党など影も形もない、はるか昔の祖先の代から守ってきた独自の文化と「誇り」である。
中共の狙いは、すでにウイグル人やチベット人に対して残虐にそれが実施されていることでも分かるように、究極的には、文化破壊や言語破壊から始まる「民族同化政策」なのだ。
頑強に抵抗し、勝利したミャオ族の村人たち
1月9日、貴州省の黔西南プイ族ミャオ族自治州安竜県にある少数民族のミャオ族(苗族)が住む村で、当局者に対する「反乱」が起きた。
直接の原因は、古くから土葬の伝統をもつミャオ族に対して、中共当局が「遺体は火葬し、その遺骨や遺灰は指定する共同墓地に埋葬せよ」と命令したことにある。
共同墓地は有料であり、数千元から数万元(1万元は約20万円)かかるともいう。山間部の村民にとって、あまりに法外な値段である上、その金は、そっくり地元政府の収入になる。
村民は、これを断固拒否した。それに対し、中共当局が、特殊部隊をふくむ多数の警察官を村に突入させ、遺灰を奪い取ろうとしたことが今回の衝突の発端であった。
この日、未明から地元政府はSWAT(特殊武装チーム)を含む、武装警察、政府職員など数百人を動員して村へ強行突入した。
当局者らは、数十台の警察車両を用い、防御用の盾や刺股(さすまた)などを手にして、ミャオ族が住む村に入ると、命令に従わない村人を容赦なく殴りつけ、家に踏み込み、亡くなった村民の遺灰を奪おうとした。
しかし(前回にも同様なことがあり、村民側の敗北だったが)今回は、違っていた。
当局側による非道な暴力に対して、村人は屈服するどころか、心中に秘めて久しい「民族の怒り」を爆発させた。なんとミャオ族の村民は、男も女も、中共の警官隊に対して猛烈な反撃に出たのである。
「恫喝すれば屈服する」と思った中共だったが…
「恫喝すれば屈服する」と高を括っていた警察側は、まさか村民が束になって反撃してくるとは予想していなかったのだろう。村人たちは総がかりで、石やレンガ、棒など、使えるものは何でも武器にして激しく闘った。
この意外な事態に直面すると、怖気づいて逃げ出したのは警察側であった。
しかもここは深い山の中、ミャオ族が代々住む土地だ。「地の利」は、圧倒的に村民側にあった。
山間の村を野武士から守る、黒澤映画『七人の侍』のようなことが実際に起きたと思うと、日本人としては想像しやすいかもしれない。
ただし、こちら貴州省安竜県での闘いは、七人の侍が指導したのではなく、ミャオ族の村民が団結し、自分たちの力で奮戦したのである。
村の全ての出入り口は、警官が逃げられないよう、村人によって封鎖されていた。警察が村に乗り込んできたパトカーを含む警察車両は全て破壊され、使用不能になっていた。
逃げ道が塞がれ、逃げる「足」も失った警察官たちは、怒った村人たちに完全に取り囲まれた。
都市部では横暴を極める中共の警官たちも、ここでは全く無力であった。警察の特殊部隊でさえ刺又や盾を捨て、もはや両手を合わせて命乞いをするだけの「捕虜」となるしかなかったのである。
それは、勇気あるミャオ族の村民による「完全勝利」であった。なお、村民は激しく闘い、パトカーなどは破壊したが、警官の命を奪うことはしていない。
この日の朝、警察や政府職員は村人に「謝罪」をし、その謝罪に則った約束を取り付けた後、村民の許しを得てようやく解放され、村を離れることができた。
ぞろぞろと徒歩で、肩を落として村を出ていく警官と当局者たち。
みじめな「落ち武者」となった警官たちに向かい、道路脇の高台に立つ村民たちは「お前たちは土匪(盗賊)だ」「政府の手先め」などと罵声を浴びせ、「二度と、この村に来るな!」と警告した。
衝突のきっかけは「葬儀への干渉」
衝突事件のきっかけとなったのは「葬儀への干渉」だった。
古来ミャオ族は土葬を行う伝統を持つ。しかし、地元政府は「死者の遺灰は、全て政府が指定する公共墓地に埋葬しなければならない。そうしなければ違法行為だ」と主張している。
つまり、地元政府は財政収入を増やすため、ミャオ族の村民に「墓地を買わせる政策」を打ち出したのだ。もちろん、値段は安くない。
事件の日、葬儀を終えたばかりの村民家族がいた。高額な公共墓地の代金が払えるはずもなく、亡くなった家族の骨灰を村のなかで埋葬しようとした。その遺灰を、村に押し入った警察によって奪われそうになったのである。
もちろん、金銭だけの問題ではなく、先祖から受け継いだ葬儀の伝統を守るという理由もある。ミャオ族の村人は、現地政府からの要求を固く拒んだ。その結果として、激しい衝突に至った。
村民たちは、亡くなった家族や同じ村民の遺灰を守るため、中共傘下の警官隊に立ち向かったのだ。
村民の証言で、事件の詳細が明らかに
16日にエポックタイムズの取材に応じた現地の村民、蔡さんによると、その詳細は以下の通りだという。
「土葬は、我われが代々受け継いできた風習だが、中共政府は2017年に火葬を義務化した。同年の10月26日に、遺体を奪われる事件が起きていた。その時は、抵抗する村民の数が少なかったため(遺体が奪われて)強制的に火葬されてしまった。それ以来、火葬が強制実施されるようになった」
「(今年)1月9日の夜中の3時ごろだった。200~300人ほどの武装警察、SWATらが村に押し入り、村民の家をまわって、家に置いてある亡くなった家族の遺灰を奪おうとした。彼ら(警察)は村に入るやいなや、妊婦をふくむ村人に暴行を加えた。村人の車まで、彼らによって壊された」
「最近、村で亡くなった老人がいた。遺族は火葬した後、骨灰を家に持ち帰って、それを村内に埋葬する準備をしていた。村に入った警察がその遺族を殴ったと聞きつけて、村民の怒りは頂点に達した。どの家からも、反撃隊に参加する人が名乗り出てきた」
「警察は、私たち村民を殴った。殴られたなら、やり返すまでだ。村民たちは石やレンガ、棒などを使って警察に反撃した。我われの反撃を食らった警察は、逃げ回った。村人側も200~300人はいた。これは適わないと悟った警察は、ある民家に立てこもり、村の子供を人質にまで取ったんだ」
「最終的に警察たちは、村人の手によって村から追い出された。(村人側が勝利したため)その日に葬儀を行った村人の遺灰は、奪われることなく、予定通り埋葬することができた」
村民が遺灰を公共墓地に納めることに同意しなかった理由については、蔡さんによると「我われの伝統を守ることのほかに、費用の問題もある」という。
「公共墓地は、1つにつき数千元もかかるし、20年後にまた費用が発生する。今は皆、お金がない。死んでからも、まだお金がかかるなんて(理不尽だ)」と、蔡さんはあきれ顔だ。
中共当局は「大規模報復」に出るか?
「大恥」をかかされ、完全に面子を失った中共当局と警察側は、この後どうするか。
この村に対して、村をせん滅するほどの残酷さで、大規模な報復戦を挑んでくる可能性は否定できない。これまでの中共のやり方からすれば、それは必至であろう。
しかし、事件から約2週間になる現段階では、そのような兆候はまだ見えない。
中共は今、この件を扱いあぐねて、手を焼いているに違いない。もしも、この貴州省安竜県の山村に、数千どころか数万の武装警官を投入して大規模攻撃を仕掛けたならば、それに反抗する勢いは、たちまち「燎原の火」となって中国全土に飛び火する。
それは、いわゆる中共の「少数民族」だけでなく、漢民族をふくむ、全ての虐げられた中国人が「打倒中共」の反旗を一斉に翻すことにもつながりかねないからだ。
映像にもあるように、村民の前で「両手を合わせて、ひたすら命乞いをする」警官の姿が、中共の近未来を象徴している。
そうした意味で今回の事件は、その地名から「安竜事件」として記念され、後世に伝えられるであろう。
(「安竜事件」の顛末を伝える映像。闘いは、村人側の勝利に終わった)
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