Mises.org「Bureaucracy and the Civil Service in the United States」から抜粋
市場で活動する企業にとって、マネージャー層が最も大切にすることは株主のために利益を出すことだ。それぞれの支店は、企業の利潤に貢献することを義務とする。
しかし、利潤へのプレッシャーがない政府は、議会で定められたルールと予算に従うにとどまる。「公益」というあいまいな行動規範のみに従った組織は、組織のトップを務める者の収入と名誉の増大へと走る。
規律に縛られた官僚組織では、その収入と名誉は否が応でも、どれだけ多くの部下が組織のトップに報告を上げるかに依存する。したがって、各組織は機能を増加させ、職員数を増やす争いに邁進する。可能な限り効率的に顧客の要望に応えようとする民間企業に対して、官僚セクターはその権力と賢さをもって納税者から搾取し、際限なく膨張する。
市場経済の合言葉が「利益」だとするならば、官僚組織の合言葉は「成長」だ。市場経済で利益を得るには、激しい競争と絶え間ない変化の中で顧客の需要を満足させる必要がある。つまり、既存のスーパーマーケットに取って代わる無人スーパーをつくって生き残るか、時代の変化に取り残され、縮小・撤退の道を歩むかの二択だ。企業は、顧客の購買意欲を刺激するような商品やサービスを提供し続けなければならない。
一方、官僚組織の成長は、予算を握る議会や委員会に対して「公益」や「公共の福祉」などの漠然とした目的を提示し、公共サービスの意義を納得させることで実現する。国民は納税の義務を負っているため、官僚は効率的に予算を運用する動機も理由もない。世界で最も奉公心を持つ官僚だったとしても、顧客が何を求めていて、どのように需要に応えるべきかは知らないのだ。
市民は低額、あるいは無料で公共設備を利用することができる。仮に市民が料金を支払う場合でも、投資者は利潤や損失の影響を被ることはない。ゆえに、官僚は市民の意向に関わらず思うままに公共サービスを提供し、市民はそれに従わざるを得ない。ダム建造を例にとれば、非効率な政府は納税者のお金で補助金を出し、人材や資金の配分を誤り、明確な方針もないままサービスの提供を行う。
また、ダム建造から全くメリットを得られない集団もいる。経済学者の言葉を借りれば、「正の価値財(価値を与える商品やサービス)」ではなく「負の価値財(害を与える商品やサービス)」にあたる。環境保護を唱える活動家や周辺で暮らしを営む住民にとって、ダム建設は決して「サービス」ではない。そこで政府は、権利や財産を持つはずの納税者に対して威圧的な態度をとり、一部の犠牲で他を支える不均等な再分配を行う。
一番利益を得ているのは、官僚組織そのものだ。官僚らの報酬は納税者が負担している。第7代アメリカ副大統領のジョン・カルフーンは著書『A Disquisition on Government』で、官僚による納税は会計上の見せかけにすぎない、と指摘する。官僚組織の存在は、社会を二つの階層に分断する。事実上の納税者と、事実上の税の受益者だ。税の負担が大きいほど、政府が肥大化するほど、その分断は広がっていく。
「必然の結果であるのは、財政の不平等が市民の間に分断を生むということだ。一方は、税を納め、政府を支える義務を負う人々。もう一方は、納税者のお金によって、すなわち政府によって支えられる人々。簡潔に言えば、税を納める者と税を消費する者だ」
「しかし、それがもたらすのは、財政および関連する一連の政策に関して相反する二つの勢力が生まれるということだ。政府の歳入と歳出が拡大するほど、税を通じて得する人と損する人の格差が大きくなり、その逆も然り。その結果、大きな政府を目指す政策であればあるほど、支持する者はいっそう強く支持し、反対するものはいっそう強く反対する」
「税で得をする人(事実上の受益者)はますます暮らしが豊かになり、税で損をする人(事実上の納税者)はますます暮らしが貧しくなる」[1]
では、官僚組織はいかにして組織を拡大し、その結果収入を増加させるのか。それは、公共事業の意義をアピールし予算拡大の正当性を議会や委員会に説得する、もしくは大衆に訴えかけることによってのみ達成される。では、市場が存在せず、一部の犠牲の上に成り立つ再分配をどのように正当化するのか。
そこで、公共事業が消費者や納税者の利益になるように見せかけ、市民や議会を納得させる「合意形成」が肝心なのである。合意形成のために世論形成に影響力を持つインテリや知識人を雇い、大衆や議会に対して、組織の存在が世の中に普遍的な恵みをもたらすものだと思い込ませる。雇われたインテリたちが納税者である市民を欺く構造は、市民らが互いに欺き合い、欺かれた側が欺いた側に税を貢ぐようなものだ。
リベラル派は常に、市場で飛び交う「広告」を非難する。耳障りで、誤解を招きやすく、需要を恣意的につくりだしている、と。しかし広告は、製品の性質やクオリティ、価格、販売場所といった重要な情報を伝えるのに必要不可欠なものだ。むしろ奇妙なことに、リベラルはその批判が自分たちに当てはまることを気にもしない。政府によるプロパガンダ、広報、恣意的な演出も批判に晒されるべきではないか。
大きな違いは、市場でのプロモーションはすぐに検証可能であるのに対し、有権者が政策の有効性を即座に検証する方法がないということだ。さらに選挙では、有権者は特定の政策を支持することができず、様々な政策が抱き合わせになった1人の人間を数年間の代表として選ばなければならない。政策を検証できないがゆえに、問題や政策を議論する近代的な民主政治は崩れ去り、扇動政治が力をもつのである。[2]
参考文献
[1]John C. Calhoun, A Disquisition on Government (New York: The Liberal Arts Press, 1953), pp. 17-18. Murray N. Rothbard, “The Myth of Neutral Taxation,” Cato Journal, I (Fall 1981), pp. 555-58.
[2]Murray N. Rothbard, Man, Economy and State: A Treatise on Economic Principles (Auburn, AL: Ludwig von Mises Institute, 1993), II, p774–76, p843–47.
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